同志社女子大教授・影山貴彦さん(前編)〜テレビマンから二毛作で大学教授へ〜

2018.06.13

影山貴彦さんの名を私が知ったのはいつだったか定かではない。関西の大学で教えている元MBS(毎日放送)の方で、テレビについてはっきりと「愛」を持ってあちこちで書いてる方として、いつの間にか認識するようになっていた。毎日新聞の「テレビ燦々」関西ウォーカーでの「がんばれ関西ローカル!」という連載タイトルからも、テレビを応援する気持ちが明確に伝わってくる。Disられがちなテレビなのに、愛を込めて「テレビを書く」のはどんな経緯と背景があるのか、うかがった。

【聞き手/文:境 治】

テレビもラジオも作りたかった

-影山さんにとって、子どもの頃のテレビってどんな存在でした?

少年時代、テレビは大人なものでした。わからないところもあるけど、大人の部分を一生懸命見てました。ドラマでいえば「傷だらけの天使」。小学生だったので、半分以上はわからないですよ。時々女性の裸も出てくるし、スケベ心で見ていた。でもそれだけじゃないメッセージ性みたいなこともセットで吸収してるわけですよ。テレビには何かを教えてもらっていましたよね、間違いなく。

-そういう「教えてくれるテレビ」に自分も入りたいなという気持ちは、ずっと持っていたんですか。

そうですね。中学でもう番組を作るんだと決めていて、高校大学と全然ぶれませんでした。いろいろ調べたら早稲田大学ってのが一番大勢マスコミに行ってるわ、じゃあそこ目指そう、とか。マスコミで働きたいんだ、ということにすべての照準を合わせて過ごしてました。

-MBSは、第一志望だったのですか。それとも、いろいろ受けた中で、受かったからなのか。

MBSは輝ける第二希望ですね。第一志望がTBSで俺はドラマを作るぞ!と思ってました。

-あれ?そうなんですか?!

ドラマ志望で、それが今ドラマを偉そうに語らしてもらって申し訳ないような。それとTBSとMBSだったのは、ラジオも作りたかったので。

-なるほど。東京キー局はTBSしかラジオがないですもんね。

TBSには憧れて憧れて、赤坂に勤めることになったらどこに住もうか、なんてことまで考えたのにスコーンと一次試験で振られるわけです。MBSは、相性が良かったのか、トントントンと進みました。
MBSを受けたのは、テレビのバラエティーが面白かったからですけど、もう一つ「ヤンタン」(「MBSヤングタウン」の愛称、60年代からいまも続く伝説的ラジオ番組)をやりたかったんですよね。少年時代から「おれはヤンタンやるんだ」と言ってたんです。
あと当時は、お昼のドラマ1時間枠がありましたね。それから東芝日曜劇場は、基幹5局(TBS、MBS、CBS、HBC、RKBのJNN系列5局)が制作していてMBSならドラマの仕事もできるぞと。

-この連載で倉本美津留さんにお話を聞いたときに、関西局のバラエティーはむちゃくちゃなことをいっぱいやってたとうかがいました。

当時まだまだありました、関西にはそういう熱気が。「突然ガバチョ」なんて今のバラエティーのお手本にもなってるわけですよ。それが痛快でしたね。
80年代後半にTBSでイカ天やってたでしょう。MBSはイカ天はレギュラーでやってないんですよ。なぜならばその時間「板東英二のわがままミッドナイト」という番組があってイカ天よりも遥かに数字取ってたんです。司会はMBSの名物アナウンサー角淳一さんで、情報番組の走りみたいなもんかな。それを12時半過ぎから、夜中の3時まで生放送でやってたんです。

-夜中の3時まで?!

準キー局、関西のプライド。関西の矜持。それが気持ちよかったですね。

面接で編成志望と言ってしまい編成に配属

-MBSに入られて最初は編成だったんですよね。

はいそうです。これも明かしちゃうと、コネも何もない人間がテレビ局に何百倍もの倍率を乗り越えて入るためにいろいろ調べたら、テレビ編成って部署があるぞ、テレビ局の中枢って書いとるわと、これやと(笑)
面接でテレビ編成希望ですと言い続けたんです。「君は面白いね。編成なんていう言葉を知ってるんだ。」「そうなんですよぉ」僕の誤算は、そっから研修中に制作志望と言うつもりだったのに、後に社長になる当時編成局長の柳瀬さんという人物が「影、お前の言うとおりにしてやったぞ」と言って編成に配属されたんです。「ちょっと待ってください僕は制作志望で」なんてもう言えませんでした(笑)
でもそれは神様が「お前ここで仕事せえよ」と思ってくれたのか、3年目で昭和の終わりを経験しました。その時が来たら番組を全部変えなきゃいけないから、毎週泊まってたんです。あのときは報道や制作より編成の方が忙しかったですね。テレビ放送の重みみたいなものが編成にいたからこそ味わえたんですね。
編成に3年いたあと柳瀬さんが今度は「待たせたなドラマ行かしてやったぜ」と言ってくれました。ドラマで、正直言ってケツを割りました。あまりにつらいと、AD業務がこんなにつらいのかと。アシスタントディレクター、アシスタントプロデューサーを経験してからバラエティーに移りました。そしたら、まあ楽しい。水を得た魚。最初っからバラエティ志望にしとけばよかった(笑)
でも経験したので、帯ドラマがどんだけ忙しいかわかったことは、いま批評する上でプラスになってますね。

-ではバラエティーに行って、その時点で30才ぐらいになってるんですね。

そうですね。「ヤンタン」の名物プロデューサー渡邊一雄、通称「大ナベ」と呼ばれてた人がいまして。泣く子も黙る、さんまさんも直立不動になるような大物です。その大ナベさんがその頃はテレビの部門の偉いさんでおったんです。「聞いたけどヤンタンやりたいらしいな」と言って来てくれましてラジオに行く。でもすぐにヤンタンに行かずに「ありがとう浜村淳です」の担当になりまして。これもやらせてもろうてよかったです。いい経験になりました。そこからヤンタンを5年やりました。MBSにいた 15年のうち3分の1はヤンタン。ディレクター、それからプロデューサーで最後はチーフプロデューサーをやりました。

二毛作人生にしようと大学教員に

-大学教授への道を進み始めるのは大学院に行って修士博士を取ってというプロセスですか。

真面目にキチキチ人生考えているわけではなく、大ざっぱなんですけど、新婚一年目で嫁さんに「40になったら、MBS辞めるから」と言いました。そのときは大学教授もまだ頭にないんです。嫁さんはあとで「本当に辞めるとは思わなかった」と言ってましたけど。

-それはどうしてですか?

二毛作みたいな。今の若い人なら普通でしょうけど、二毛作みたいな人生って面白いかなと。MBSは楽しい。大好きで大好きで辞めてます。好きでもやめるということもあんねんでと。二毛作で違う土地で違うものを作ろうよと。
でもMBSで何かうまくいかなかったんだろうとは言われたくないですし。そんなんめっちゃ嫌やと。「なるほど、そういう選択しよったんか」と前向きに思ってもらいたい。それは大学教員かなと考えたわけです。

-でもお話伺ってるとティーンエイジャーの頃からテレビに行くんだって決めていろいろ悩みつつ、結果的には幸せな道を歩んでますよね。やりたかったヤンタンも作れたし。それをなぜ?

放送業界は現場の寿命が短いんです。40才を回ると「もうそろそろやろ、もうしっかり遊んだやろ」って言われるんです。「そろそろ金勘定せえよ」とか「後進を育てよう」とか、そこもずるいですけど、おいしいとこだけとって辞めたろうと考えた、って言うと怒られそうですね(笑)。40才になったら流れる空気が変わる。昔は専任局次長という感じで作り続けて、読売テレビさんでいうと、鶴橋康夫さんのように、ドラマ一筋何十年という人はいた。MBSにもいました。でももういないんですよ。テレビをつまらなくしてるのは何かって言われたら人事にもありっていうことではないでしょうかね。

-大学の先生になって、一方でテレビに関しても語ったり書いたりする発言する。これは最初からやってたんですか。

大学の先生として認めてもらえるまではどっぷり浸かるつもりだったので、しばらくは大学中心でいこうと思ってました。教授になるまではギアを落として、教授になったらエンジンふかしていこうと。2009年に教授になって、さあ好きな人と会って好きなことを話して書きたいことを書こう、もう文句言うなよと(笑)

- 教授になって活動を広げる際、ソーシャルメディアはすでに活用されてたんですか。

Twitterは早めにやってましたね。楽しいコミュニケーションができるなといろいろ試しました。ある時「目玉焼きに何つけますか?」ってツイートしたらけっこうな著名人まで「僕これつけます」「私あれつけます」とバーッと盛り上がって。あるビジネス誌がTwitterのビジネス活用を特集した時、「目玉焼きに何つけるか、というものまで登場し始めた」と取り上げられました。その話をもとにコミュニケーション学会で「Twitterの使い方」として発表し1粒で何度もおいしかったですね。
それからブログも早かった。眞鍋かをりがブログクイーンとかもてはやされているのを見て始めましたからね。真鍋かをりの後追い(笑)

-そういうのを面白がってすぐ取り入れちゃう人と、考え込んじゃって腰が引けちゃう人といますけど、影山さんは面白がるタイプですね。

そうですね、フットワークは軽いんでしょうね。


放送局を辞めて大学で教える人はよくいるが、ほとんどが退職する年齢になってからだ。40代で教授になった人は珍しい。しかも中学生で「番組を作る!」と決意して、憧れの「ヤンタン」のプロデューサーにまでなったのに。自分の作り方が上手なのだと思う。後編では、テレビについての語り手としての影山さんに迫る。

影山貴彦 プロフィール
かげやま・たかひこ 同志社女子大学メディア創造学科教授
1962年生まれ 早稲田大学政治経済学部卒 毎日放送(MBS)プロデューサーを経て現職。MBS在職15年半、テレビ・ラジオの編成・制作畑を歩む。代表プロデュース番組に「MBSヤングタウン」。著書に「テレビのゆくえ」、「影山教授の教え子が泣きにくる。」など。「影山貴彦のテレビ燦々」(毎日新聞)、「影山貴彦のテレビのホンネ。頑張れ!関西ローカルTV」(関西ウォーカー)コラム連載中。「カンテレ通信」(関西テレビ)コメンテーター。ABCラジオ番組審議会委員長も務める。
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