【連載】インタビュー「テレビを書くやつら」
テレビっ子・戸部田誠さん(前編)〜「平成のバラエティ」とは何だったか?〜
2019.02.20
境治【聞き手/文:境 治】
徹底的に資料を集め、徹底的に取材する
戸部田誠(以下、T):よく『1989年のテレビっ子』(以下、『1989年』)について、ものすごい記憶力ですねと言われますけど、この本で記憶で書いたことってほぼなくて、全部資料で書いたんです。
S:へー!ということは資料をとってあるんですか?
T:とってあるのもありますけど…まあ、集めた。今はインターネットがあるので、その資料がどこにあるかっていう情報に関してはある程度揃ってるのでそこから原典にあたれば入手できますね。
S:なるほど。いまは古本でも、アマゾンで買えますからね。じゃあご自宅にはテレビ関係の書籍が山と積まれてるってことですね。
T:そうですね。(笑)

T:ぶっちゃけて言うとそんなに変わらなかったです。自分が取材したのも1つの資料っていうか、『1989年』で言う資料と同じで。ただ自分が聞きたいことを聞いているので、逆に簡単というのはあります。
S:じゃあ『全部やれ』の方も取材した後、紙にして資料化するわけですね。ご自分のポリシーとか、自分の好きなやり方みたいなところでいうと、結果そんな変わらなかった感じですか。
T:そうですね、やってみると、意外とそんな変わらないなと。『全部やれ』の場合は、資料がそもそも足りなかった。だから取材して書くしかなかったわけです。かつ、裏方の人を主役にしていて、裏方の人ってあんまり喋る機会がそんなにはないので、そういう意味でも資料が足りなかったです。
S:作り手の人は比較的本を書いたりしてますもんね。
90年代はフジテレビ的なものがテレビ的だった
T:それはもう発見できたから、転換期が89年だなっていうことに気づいたからですね。だから特に何か思い入れのある年でもないですし。テレビ好きだと、誰が好きなのとかよく聞かれるんですけど、僕そんなに誰かがすごく好きっていうことないんですよ。
S:そうなんですか?!
T:テレビ全体が好きっていうか、もちろんダウンタウン直撃世代なので、ダウンタウンは好きなんですけど、でも本当に熱狂的に好きかって言われると全然そうでもなくて、普通に好きな人の1人という感じ。だからそんなにすごい思い入れの強い番組とか人とかがあるわけじゃなくて、テレビ全体が好きなんですよね。僕年表が好きで…いろんな年表眺めているのが好きなんです。見ていくと、89年はとくに分厚いなと思いはじめて
S:もうちょっと掘り下げると、普通はフジテレビがテレビを変えたみたいな言い方をするし、そうするとフジテレビが三冠王を取りはじめた80年代前半から何かが始まったのだとよく言います。
T:もちろんThe MANZAIが始まった時期も一つの転換期だと思うんですけどその次の転換期が89年かなと思います。新たな切り口として着目しました。
S:『1989年』の中で「平成のバラエティ」という言い方をされてますね。これは定義するとしたらどういうことになるんですか。
T:定義…難しいですかねえ。平成というか90年代のバラエティで言うと、大衆に向けたものから、割とターゲットを絞ったものに変わったのかなと。例えばとんねるずにしてもダウンタウンにしてもやっぱり高齢層は切り捨てているじゃないですか。

T:そういうのが、いろんなジャンルで多分起こっていて、どっかに寄せたターゲットをはっきりと決めて作り始めて、主流になっていったと。それが2000年代になるとまたまた大衆に回帰する、戻っていったと思うんですけど、90年代は多分そういうことで、だからタイアップとか売れたじゃないですか。ターゲットにより刺さるように。それが主流になっていった時期だと思う。
S:なるほど。ここで言う「平成のバラエティ」ってフジテレビのことだと受けとめたんですけど。
T:そうですよね。だからフジテレビ的なものがテレビ的って言われてた時期だった、ということだと思うんですよね。
S:確かに。ある世代までは共通かなと思うんですけど、テレビってこういうところが面白いって思ってきた共通項かもしれないなといま言われて思いました。
日本テレビの人は、自分たちを「テレビ屋」と呼ぶ
T:そうですね。自分でも書き始めてこれは対比できてるとは思いました。
S:最初のほうに書いてありましたけどあまり日テレは見てなかったと。
T:もちろん電波少年とか見てましたけど。それ以外はあんまりって感じでしたね。
S:最近の正月のNHKの新春TV放談で出てくるベストテンにはだいたい10本中7本ぐらいは日テレのが入ってるけどあんまり自分は見てないと本にありました。僕も、ああそうだなって思ったんですけど。
T:日テレのバラエティはテレビ好きはあんまり見ない。
S:わかりますわかります。日テレのは全部見ない、というより日テレで視聴率がランキングに出てくるようなものは見ない、ということでしょうね。『1989年』的なテレビの見方からするとやっぱり見ないんでしょうね。
T:だから、電波少年は皆好きだった。『1989年』で言ってることのアンチテーゼ的なことを『全部やれ』でちゃんと書いたら面白かったみたいな。
S:『全部やれ』は文春から依頼があって連載として始まったんですよね。知らないことは結構取材しないと、ストーリーがイメージできないんじゃないか。でも、わりと最初の段階から、このストーリーで書こうと取材を始めたんですか。
T:そうですねえ。細かなところは取材を始めてからですけど。全体的なイメージとしては、だいたいは。日テレが、どういう段階を踏んでフジテレビに勝っていったかはある程度、事前に資料とかでわかっていたんですよね。クイズプロジェクトがあったこととかは、なんとなく知っていましたし。
S:番組として魅かれてはなかった日テレを調べたら、すごいストーリーを発見した。そういうことまで知ったら、日テレの番組に対する見方は変わったりはしたんですか。
T:やっぱりそれなりには変わりました。何で見なかったかというと、多分あんまり作り手の人間味を感じなかったから。本当にしっかりとフォーマットに従って、完成度が高かったからあえて毎週見なくてもいい、好きなゲストが出てるときだけ見ればいいと思っていた。でもその一つ一つに作り手の思いがこめられてるのが取材から具体的にわかると、そういうフォーマットにも人間味があるんだなっていうことはだんだん感じました。

T:そうですね。やっぱりフジテレビって、タレントだと思うんですよ。『1989年』があくまでもタレントが主役で、『全部やれ』は社員が主役というのが象徴的だと思うんですけど、フジテレビの場合作り手も割とタレント的だし、いかにタレントを光らせるかっていうことにすごく注力している。一方取材して気づいたのは、日テレの人は自分たちをテレビ屋っていうんです。
S:あー、面白いですねーそれ。
T:フジテレビの人は多分あんまりテレビ屋とは言わないんです。テレビマンとか、そういうふうに言ってる。日テレはやっぱりテレビ屋なんだ、本当にビジネスとして、職人っていうか自分たちがやりたいことというより、見てる人に合わせるんだという意識を感じる。
S:なるほどね。見てる人に合わせるというのは「見てる人に合わせときゃいいんだよ」って感じじゃなくて、ものすごい全身全霊をかけるわけですね。そういう日テレの作り手、土屋さん吉川さん五味さんたちのこだわった姿勢っていうのは今の日テレにも受け継がれていると考えていいんですかね。
T:そうだと思います。やっぱり今もきめ細かいじゃないですか。それがいいか悪いかは別として、密度が濃いというか、いつ見ても間違いなく面白い。それは本当に受け継がれているなあと思いますね。
S:聞きにくいけど聞いちゃうと、今も「いいか悪いかは別として」っておっしゃってたのは、自分は心の奥底ではあまり好きじゃないんだけどっていうのが、やっぱり残っちゃうのでしょうか?
T:それもありますし、やっぱり僕みたいにすごくテレビを見てると、何か過剰だなっていうのはある。サービス過剰というか。そんなに分かりやすくしなくてもいい、っていうところはあったりしますね。
S:またあと、さっき90年代に「テレビ的っていうのがフジテレビ的なものだ」と言ってましたけど、今は日テレ的なもの、日テレ的な演出というのが「テレビ的」となって、他局にも及んでいませんか?
T:そこに対して、2011年ぐらいにフジテレビに対してのあるアレルギーが視聴者に蔓延したじゃないですか。それと同じようなことが、やがて日テレにも起きてしまうんじゃないかという危惧があります。
『1989年のテレビっ子』『全部やれ。日本テレビえげつない勝ち方』この2つの著作は合わせ鏡のように対照的であり、それがそのまま平成テレビ史にもなっている。こんなにテレビのことを考え掘り下げる人もいないが、話す姿勢は決して次々言葉を繰り出しベラベラ喋るタイプではない。いつもはにかんでいる少年のようなキャラクターもまた面白かった。後編では、いまのテレビについて語ってもらったので、どうぞお楽しみに!
ライター。著書に『タモリ学』、『1989年のテレビっ子』、『笑福亭鶴瓶論』、『全部やれ。』など。
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