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日テレ「news every.」小西美穂キャスターに聞く 阪神・淡路大震災の取材現場から学んだ多くのこと

西森路代 2019.03.14

現在、日本テレビ『news every.』に出演し、ニュース解説を担当している小西美穂キャスター。平成4年に読売テレビに入社後、報道記者として阪神・淡路大震災や和歌山毒入りカレー事件など関西で起きた重大事件の取材を担当、平成13年には読売テレビで女性初の海外特派員となりロンドン支局に赴任したのち、平成16年からは日本テレビに出向してキャスターに抜擢。さらに平成18年からは正式に日本テレビ社員となり、現在もキャスター、解説委員として報道の現場の第一線で活躍中だ。
今回「読みテレ」では、そんな小西さんにインタビューをさせていただく機会を得た。読売テレビの報道記者時代に経験した阪神・淡路大震災の取材のお話をお聞きした。

【聞き手/文:西森 路代】
————まもなく平成も終わりを迎えますが、小西さんにとって「平成元年」はどんな年でしたか?

私にとって、平成元年は、学生時代に夢中になっていたスポーツ、ラクロスに出会った年なんです。大学2年生でした。当時は日本に上陸したばかりで、ゼロから部を立ち上げました。練習方法もわからないから英語の本を翻訳し、用具も売っていないので輸入したり、ビラを配って選手を集めたりして、ラクロスを普及していきました。今、私が大切にしている「ゼロから環境を整えて、仲間を巻き込むやりがい」はラクロスから学びました。だから、人生の転機が平成元年であり、ラクロスと出会ったことなんです。
————その後、平成4年に読売テレビに入社されたということですね。

入社一年目は人事部にいて、ラクロスの日本代表の選手をやりながら、仕事をしていましたが、現場に出たいという希望がかない、二年目からは報道記者になりました。入ってすぐの頃には、大阪愛犬家連続殺人事件という大きな事件が発生して、その取材にかかりっきりでした。無我夢中でしたね。
————平成7年の阪神・淡路大震災も、入社してすぐの大きな災害でした。

入社三年目でした。私は神戸に近い老朽化したマンションに住んでいて、ゴーっという激しい揺れで飛び起きて、気が付いたら裸足で非常階段を下りて外に出ていました。当時は大阪府警の捜査一課の担当で、すぐ出社して取材しなければと思い、地震の3分後くらいに本社デスクに電話しました。発生直後はまだあれほどの大きな地震だとはわかっていなくて、デスクの指示は本社にはまだ来なくてもいいよということだったのですが、自分の部屋の棚が全部転げてぐちゃぐちゃになっていたので、困っている人もいるだろうなと思って、着る物を一週間分くらい詰め込んですぐ家を出ました。タクシーもなかなか捕まらなくて、私の前でタクシーを捕まえようとしていたカップルに同乗させてもらって会社までたどり着いたんですよ。

————すぐに大阪や神戸を取材されたんですか?

本社に着いたものの、会社にタクシーも停まっていなくて、取材したくても出られなかったんですね。でも一刻も早く被害の状況を取材しないと、と思って、通常は絶対やらないことなのですが、カメラマンの自家用車を運転して、大阪市内に出て映像を撮りました。市内の中心部でもマンホールから水がふきだしていたり、マンションの上層階の人の家にいくと、ガラスが割れてめちゃくちゃになっていたりして、徐々に大変な状況が見えてきました。当時は今のように各地の状況がすぐに把握できるわけではないので、取材を終えて会社に帰って初めて、阪神高速道路が倒壊していることを知りました。その後は、ライフラインの被害状況、ガスや水道や電気の状況を取材してまとめて、それをキャスターに渡すという作業を48時間ぶっ続けでやっていました。

————その後、取材に出たのは。

早く現場に出たかったので、丸二日間ライフラインの集計をした後、すぐに神戸に向かいました。鉄道も道路も寸断されて、陸路からは行けないので、大阪の大正区の港からでている漁船に乗って神戸港へ向かいました。神戸支局自体が地震で壊れて機能不全に陥っていて、隣のビルの床で毛布にくるまって寝泊まりしながら取材を続けました。私は神戸で生まれて、神戸は幼い頃から慣れ親しんだ大好きな町です。親せきも友達もたくさん住んでいます。今まで見慣れた町が、地震で無残な姿に変わり果ててしまっている。自分の感情の整理もつかないまま、被害を伝え続けました。
————平成7年はいろんなことがあった年で、すぐに東京では地下鉄サリン事件が起きたりしましたよね。

1月に震災があり、3月に地下鉄サリン事件が発生しました。当時はまだ「地下鉄サリン」という呼び方もなかったんですよね。発生当日、私は、西宮で被災した児童たちの卒業式の様子を取材していて…、みんな友人や家族を亡くしたりしているけれど、そんな中で卒業証書をもらう姿を撮影していました。取材している私も涙がこみあげていたんですが、突然ポケベルが鳴って、デスクに連絡したら東京の地下鉄で大変なことが起きたと。卒業式の放送は地下鉄サリンの報道で飛んでしまいました。その日から、ニュースが地下鉄サリン事件の方に重きが置かれるようになっていったんですが、私自身、もっと神戸の被災地にこだわって取材したいという思いが増してきて、希望して神戸支局担当の記者になり、そこから1年間、毎日短くてもいいので必ず被災地のニュースを支局から中継で伝えるコーナーを担当していました。

————印象に残っている取材はありますか?

たくさんありすぎてひとつには絞れないです。でも、先日ちょっとした出来事があって印象深い取材があります。当時、西宮の商店街でお惣菜屋さんを営んでいたご夫婦の取材をしたんです。震災で潰れてしまった店の中から、使える鍋を引っ張りだしているときに出会って、そこから1年以上取材をさせてもらっていたんですね。店も自宅も失って、仮設住宅でいちからの生活でした。もう60歳にさしかかっておられたので、店をもうあきらめるか、再び始めるか、相当悩まれていたんですが、別の場所で店を再開されました。お店の名物だったコロッケを揚げてお客さんに出すときのご夫婦の笑顔が忘れられなくて。その後、私がロンドン特派員をしていたころまでは手紙でやりとりが続いていたんですが、東京に来てからは連絡が途絶えてしまっていたんですね。そしたら去年、私が本を出して、大阪・梅田でトークショーをやったときに、その告知が小さく読売新聞に掲載されたんですけど、会場にそのご夫婦のおかみさんが突然来てくださって。「小西さんに会いに来ました」って声をかけてもらったときは、もう泣けてしまって…。二十数年ぶりの再会です。抱き合って喜びました。
————震災の取材で得たことがたくさんありそうですね。

阪神・淡路大震災の取材は、私の記者としての原点です。悲しみを乗り越えて生きる人からたくさんのことを教わりました。弱い立場の人、困っている人の声をきいて、全力で支援したい。伝えることで何かが変わる。助けの手が差し伸べられたり、世の中の関心が集まって、行政が動いたり、誰かの背中を押せたりすることがある。そんな信念も抱きました。あれから24年が経って、震災を知らない世代も増えてきました。当時の状況を伝え、継承することがますます難しくなってくると思います。震災の記憶や経験を、後に続く若い世代に生かしてもらえるよう、私自身、体験者としても伝え続けていきたいです。
小西美穂(こにし・みほ) プロフィール
日本テレビ解説委員・キャスター
兵庫県生まれ。92年読売テレビに入社、報道記者としてロンドン特派員、政治部記者として活躍後、2006年、日本テレビに入社しキャスターに。『深層NEWS』など討論番組の司会を数多く務める。現在は夕方の報道番組『news every.』でニュース解説を担当。著書に『3秒で心をつかみ10分で信頼させる聞き方・話し方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。
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