日本でもカルト規制法を整備すべきか?見えてきたのは、そのハードルの高さ。

9月11日放送の『そこまで言って委員会NP』は「テロについて考える」がテーマ。9.11から10年以上経ったいま、アメリカとテロとの戦いは終結したのか?一方、日本で起こった安倍元総理銃撃事件もテロだったのか?様々な議論で、論客たちがテロについて考えた。

注目は、「日本もカルト規制法を整備すべきか」の議論。旧統一教会を巡る信者たちの高額献金が社会問題として問われる中で、フランスに存在するようなカルト規制法が必要との声が出ている。果たして整備すべきなのかどうか、論客たちに聞いた。

有田芳生氏(ジャーナリスト)は「無理」と回答。「カルトとは、“熱狂集団”。つまり宗教だけではない。オウム真理教は破壊的カルト、社会を破壊するための集団と判断され解散になった。でも、“熱狂”で言えば色々なカルトがある。カルト規制法を作るとしても、カルトとは何か”という定義から国会で意見は一致しないだろう。日本の現状から言うと無理だと思う。」
ここで番組議長・黒木千晶アナが質問。
「フランスの反セクト法ができたのは、日本のオウム真理教の事件がきっかけだったのか?」
これに宮家邦彦氏(立命館大学客員教授)が「違う」と即答。「ちなみにフランスでは反カルト法と呼んでいない。作った人の名前からアブ・ピカード法と呼んでいる。その中にカルトという言葉、フランス語ではセクトだが、あからさまには入れていない。マインドコントロールのような言葉も、微妙に避けている。この法律は、ヨーロッパでもアメリカでも問題視されており、最大の理由は、信教の自由との関係。カルトという言葉は使わずに宗教色をできるだけなくしているが、あまりにも曖昧で、十分な基準が示されていない。これまで全くカルトに関する議論がされてない日本で法律を作るのは無理。」

フランスのセクト認定の10基準
via ©ytv
村田晃嗣氏(同志社大学教授)はこんな指摘をする。
「宗教はすべて、もとは新興宗教。今、我々が既存宗教だと思っているものも、 もともとは新興宗教で、それらができた時にはカルトと言われてきた。ある思想を持った人たちをカルトと呼ぶことのリスクは、十分考えないといけない。殺人事件を引き起こすことや、金品を騙し取ることなど、行動を規制することはできる。だがものの考え方や思想を権力で規制するのは、非常に危険なことだと思う。」
議論は全体的に、カルトは規制できない、という見解に傾いてきた。
ただ有田氏はこうも言う。
「旧統一教会の信者の皆さんの中には教義に基づいて霊感商法をやってきた人がいる。それが宗教団体とすれば、こういう団体は解散しなくていいのか、あるいは宗教法人格を剥奪しなくていいのかという議論はしなければいけない。」
これについて、有田氏に長野智子氏(フリーアナウンサー)が質問。
「宗教法人法の改正で、問題がある団体の認証を取り消すのは、ハードルが高いのか。」
有田氏が困った顔で回答。
「ハードルは高い。オウム事件であれだけ大変なことが起きて、宗教法人法の改正問題が議論になったが、驚いたことに既成の宗教団体は猛反発だった。だから問題あるところは、やはり現行法で対処していかなければいけない。霊感商法、過度な献金など、そこに被害者がいれば、反カルト法でなくとも、現行法で対処できるような改善をしなければならない。」

黒木アナがまた質問。
「これだけ多くの方の被害が出ているにも関わらず、これまでそこが問題視されてこなかったのは、どういう背景が?」
有田氏が詳細に答える。
「1992年に旧統一教会の合同結婚式を『週刊文春』がスクープし、それをきっかけにワイドショーや女性週刊誌、スポーツ新聞が大きく報道した。ところが95年にオウム真理教事件が起き、それからカルトというとオウム一色になった。そのあとに旧統一教会の企画を『週刊文春』に出しても通らない。オウムの衝撃が大き過ぎたから。あれから30年…霊感商法は続いていたし、信者に過度の献金が要求されていた。山上徹也容疑者の母は1億円以上のお金を出したが、山上家だけではなく他の信者も何億もの献金をしていた。宗教2世の方々は働いたお金を全部献金されてしまう。大変なんですよ。そこに手を差し伸べなければいけない。」

最後に黒木アナが有田氏に問う。
「政治家と旧統一教会は関わりを断つだけでいいと思うか。」
有田氏は「岸田総理は『問題ある宗教団体とは関係を断つ』と言った。ならば、“なぜ旧統一教会と関係を断つのか”、“旧統一教会のなにが悪いのか”ということを説明すべきだ。そこから出発しないと、この問題は解決に向かっていかないと思う。」と答えて一同大いに納得した。

旧統一教会に何らかの問題があるにしても、カルト規制法を適用するのは難しそうだ。それよりも被害に遭った方の救済が急務。そして政治家は彼らをどう見ているのか、はっきり説明すべき時かもしれない。

【文:境治】