15年ぶりのイラクで見た「イスラム国」が残したモノ

2019.02.26

◆「イスラム国」完全制圧を前に

読売テレビで「ウェークアップ!ぷらす」(毎週土曜午前8時〜)のプロデューサーをしている菱田雄介と申します。番組全体を構成するデスクという仕事を行いながら、北朝鮮問題やシリア難民問題などの取材を続けています。この「読みテレ」では去年6月に「報道番組Pが見た!ロヒンギャ 避難先でいま迫る危機」という記事をアップさせて頂きました。

2019年2月現在、シリア東部で「イスラム国」の制圧作戦が展開されています。すでに「イスラム国」の戦闘員は数百平方メートルの範囲に閉じ込められたと報じられていますが、民間人が人質にされているため作戦は長引いているとのことです。この短いニュースを耳にするとき、私は去年取材したイラクの街の惨状を思わずにはいられません。
まもなく“「イスラム国」を完全制圧”というニュースが流れると思います。果たして「イスラム国」は完全に制圧されるものなのか?そこに生きる市民は、どんな生活を強いられているのか?  

目を背け、耳を塞ぎたくなるような話かもしれませんが、このページの最後に置かれた動画を是非ご覧いただければと思います。

◆「イスラム国」とは何なのか?

 「イスラム国」はシリア、イラクを拠点に活動する過激派組織です。過激派組織というと、影に隠れてテロを起こす集団のように聞こえますが、全盛期の「イスラム国」は広大な領土と豊富な資金を持ち、“国”を名乗って世界にその存在をアピールしていました。

 「イスラム国」が日本でも大きなニュースとなったのは、日本人ジャーナリストが極めて残虐に殺害された2015年初頭でした。不気味な旗を掲げ、マシンガンやロケットランチャーを背負った髭面の戦闘員。ピックアップトラックで隊列を組み砂漠を進む映像は、世界中に恐怖を拡散しました。
これは、2015年9月時点の支配地域です。シリア全土と、イラク北部に広がっているのがわかります。「イスラム国が首都としたのはシリア北部の街、ラッカ。それに加えてモスルも占拠したことは、大きな衝撃でした。(縮尺の都合でバグダッドも占拠されたようにも見えますが、ここは占拠されていません)一体なぜ、彼らはここまで勢力を広げることができたのでしょうか?

 2003年に始まったアメリカとの戦争で傷ついたイラク。アメリカの後ろ盾を受けた政権に対する反発は、「イスラム国」の前身を誕生させました。やがて2011年、アラブの春が巻き起こりシリアが混乱すると「イスラム国」はシリア国内で成長。イラクでも勢力を拡大し、2014年6月にはイラク北部の大都市・モスルを制圧することで「国」と言えるような広大な領土と資金を手にしました。
「イスラム国」の成立過程にはスンニ派とシーア派、というイスラム教の2大宗派の根本的な対立も大きな要素となっています。イラク国民の多くはシーア派なのですが、長らくスンニ派のフセイン政権が実権を握ってきました。2003年のイラク戦争でフセイン政権が排除され、アメリカの支援を受けたシーア派政権ができると、旧支配勢力のスンニ派の人々は政権や軍隊の主流から外されることとなりました。
そうした隙間に入り込んだのが「イスラム国」でした。過激な主張を掲げつつ、一方ではスンニ派の教えを重視する勢力に、一部の旧支配勢力が同調。こうしてイラク北部に「イスラム国」が広がることになったのです。もちろん、内乱状態のシリアでも「イスラム国」は勢力を拡大していました。


彼らが重視しているのはイスラム教に基づく統治。20世紀前半に西欧諸国によって引かれた国境線や西欧的な価値観を否定しそれ以前のイスラム世界を理想のものとしています。シャリーア(イスラム法)の独自解釈による厳しい統治を行い、窃盗をしたら手首を切り落とすなどの厳しい法律を適用しました。
取材をすると、多くのイスラム教徒は「ダーイシュ(アラビア語では「イスラム国」のことをこう言います)の教えはイスラム教に反している。イスラム教は平和の宗教だ」と話します。その通りだと思います。しかし一部の過激な人々はジハード(聖戦)こそが正義だと信じ、残虐な公開処刑や恐怖による支配の当事者になっていったのです。

◆2003年の思い出

指導者バグダディが「カリフ」(現在は廃止されているイスラム世界の指導者の称号)を名乗り、「イスラム国」の樹立を宣言したのは2014年6月のこと。その場所はモスルのシンボルである「ヌーリ・モスク」でした。実は私はイラク戦争直前の2003年1月に、この場所を訪れていました。
2003年のヌーリ・モスク
2018年のヌーリ・モスク
12世紀に建てられたこのモスクは、ピサの斜塔のように曲がった尖塔で有名でした。モスルの観光名所の一つとして訪れた私は、特に何の感慨もなくこの場所を見ていたと思います。ただ、尖塔の下で学生が静かに本を読んでいた姿が印象に残りました。イラク戦争の開戦まで2か月。戦争が迫っていることはわかっていましたが、この場所が世界を震撼させる「イスラム国」誕生の場となることは、誰も想像できませんでした。
 この時に見てまわったモスルの街が13年後には公開処刑が繰り返される現場となり、その解放作戦によって完膚なきまでに破壊されたことは、個人的に大変大きな衝撃を受けました。
 モスルの街が「イスラム国」から解放されたのは2017年7月。それから1年が経過した2018年の9月、私はモスルへと向かいました。
イラク政府のビザを取得した私は、イラクを舞台にしたドキュメンタリーを監督している綿井健陽さんと共に、イラク北部に広がるクルド自治区に入りました。一口にイラクと言ってもクルド自治区は別世界で、イラク戦争や「イスラム国」の直接的な影響は受けず、平和な世界が広がっています。この自治区の中心都市・アルビルからモスルは車で2時間ほどの距離ですが、複数の検問を通過するのに時間がかかり、倍くらいの時間をかけて、ようやくモスルへと辿り着きました。

◆「イスラム国」の残したモノ

15年ぶりに訪れたモスルで様々な人に話を聞きましたが、公開処刑を目撃していない人はいませんでした。広場の近くで飲み物を売っていた青年(17)は、斬首や石打ち刑を目撃したと言います。広場に人が集められ、犯罪人とされる人物が引き立てられてくる。執行官によって罪状が読み上げられ、そして刑が執行される。青年は淡々と語りましたが、、処刑を見た後は眠れぬ日々が続いたと言います。
また北部の都市・ベイジ近郊からの避難民 (55)は、小さな街が恐怖で支配されていく様を語ってくれました。「裁判だと言って住民が引きずり出され、殺されました。若者もですよ、2人の甥っ子はまだ15歳だったのに。」
 街の真ん中にあるデパートだったビルでは「突き落とし」による処刑が繰り返され、街を流れるチグリス川も、水責めによる処刑の現場でした。もしも自分の街がそんな状況に陥ったら……と考えると気が遠くなります。残酷に演出された「処刑」は、今も住民たちの心から離れることはありません。
突き落としによる処刑が行われたビル

◆死臭というもの

取材中、イラク軍のパトロールに同行する機会がありました。機関銃の台座に座った屈強な兵士の後ろに陣取り、夕暮れのチグリス川を渡り、たどり着いたのは“ミダン地区” 。「イスラム国」の戦闘員が最後まで抵抗を続けた場所でした。空爆で破壊された建物に入っていくと、すぐにわかりました。戦争小説に出てくる「死臭」という言葉。今までイメージでしかなかったその死臭を今、自分が嗅いでいるのだと感じたのです。
 果たしてそこには2体の遺体が横たわっていました。死後1年以上は経っていると思われる「イスラム国」の戦闘員の遺体。足を歪め、両手を交差しています。空爆の中でもがき苦しんだ体勢がそのまま残っているようにも思えます。遺体はほぼミイラ化していましたが、歪んだ手の指は原型を留めていました。それはどこにでもある普通の人間の指でした。この指先の持ち主は一体どんな人生を辿ったのだろうか。その思いは長い間頭を離れることはありませんでした。
パトロール中のイラク兵

◆「イスラム国」の教育とは

モスル開放から1年を経てようやく開校にこぎつけた、バーベル小学校。校庭を囲む壁には可愛らしいイラストや、街の象徴だったヌーリ・モスクの尖塔などが描かれています。しかし、「イスラム国」時代の記憶は、ペンキで上塗りして消えるようなものではありません。
 暗い表情で黙々と遊んでいたアハマットくん(12)は「イスラム国」時代の教育について訥々と語ってくれました。「先生も、周りの人々もみんなダワーシュ(「イスラム国」の信奉者)でした。授業では武器について習いました。ピストルや銃弾について。」「処刑のビデオをいつも見せられました。背信者が首を斬られる映像です。イギリス人も手を縛られて、首を斬られていました」
一言一言を絞り出すようにして語ってくれた少年。最後まで笑顔を見せなかった瞳の奥には「イスラム国」が残したトラウマが深い影を残しているように見えました。
「イスラム国」の教育について語ってくれた少年
インタビューの後、学校の地下室に案内されました。入り口を塞ぐロッカーをどけると、膨大な書類が散乱する空間へと続いています。案内してくれた男性は、部屋に散乱する書類を選り分けていくつかの本を見せてくれました。それは紛れもなく「イスラム国」が発行した教科書、そして書類でした。アラビア語の教科書は類義語や対義語を問うような内容。英語の教科書も自己紹介や物の数を数えるパートなど、一般的な内容。異教徒に厳しい対応を取ってきた「イスラム国」が英語教育を行っていたことは、意外でした。しかし、教科書を一新して教育を行った背景には、「イスラム国」の子どもを育てるのだという強い意志があったのだと思います。
 15年前にイラクを訪れた時にも僕は学生に教科書を見せてもらいました。その時はあらゆる教科書に笑顔のフセイン大統領の肖像が載せられていることに驚きました。いつの時代も子どもたちは教科書を選ぶことができないのです。
「イスラム国」時代の教科書が散乱する地下室

◆「イスラム国」は去ったのか?

モスルで出会う人に全てに、この街の将来について聞きました。異口同音に返ってきた答えは「希望はない」で、私は少し戸惑いました。
 確かに今、街に仕事はなく働きたくても働けない若者が大勢います。また壊された建物の再建費用など、政府の支援は全くないそうです。将来の希望など聞いたところで、明るい答えなど口にできるはずがありません。
 「イスラム国」に協力した者への怨嗟、無実なのに「イスラム国」協力者の烙印を押された人の絶望、公開処刑の記憶、そして子どもたちに施された「殉教教育」。何より、旧支配勢力のスンニ派と現支配勢力のシーア派の対立。テロリストが入り込む心の隙間は、いたるところにあります。ミダン地区の戦いを生き延びた男性は、「このままでは「イスラム国」以上の過激な勢力が再びやってくる」と語っていました。
 「イスラム国」は去ったかもしれません。しかし彼らが拡散させた思想は、貧困と理不尽を栄養としながら、今も誰かの心の中で少しずつ成長しているのです。私は今後も、この国の行く末を見続けていきたいと思っています。
市民として登録されていない子どもが将来、テロリストに勧誘される可能性が懸念されている
執筆者プロフィール
菱田雄介(ひしだ・ゆうすけ) 
読売テレビ報道局「ウェークアップ!ぷらす」プロデューサー
96年読売テレビ入社 「THEワイド」「情報ライブミヤネ屋」などを担当。北朝鮮問題、難民問題、北方領土問題などを現場から伝える。シリア難民に関してはバルカンルート2000キロの歩みをタレントの春香クリスティーンと取材、ミヤネ屋などで放送されたほか雑誌「中央公論」誌上でも連載された。

「イスラム国」の残したモノ
2018年11月10日(土)「ウェークアップ!ぷらす」より
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